カテゴリの話1
公開日:
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最終更新日:2016/01/05
思索
■2000年以上の歴史がある「カテゴリ」
「私はHSPだ」
そう言ったときには、「私と言う人間は、HSPというカテゴリに属する」と言い換えられる。
言語をコミュニケーションに使う人間にとって、あらゆる物事をカテゴリで表現する必要があるだろう。
そもそもカテゴリとは、”事柄の性質を区分する上でのもっとも基本的な分類のこと”(Wikipediaより)で、
その概念を作り上げたのは紀元前の人であるアリストテレスだそうだ。
読んだことはないが、アリストテレス全集の第1巻に、このカテゴリ論が登場するらしく、
様々な成果を上げた古代の偉人の成果として真っ先に取り上げられるあたり、
このカテゴリという概念は人間の根源的なものであると考えさせられる。
■カテゴリは純粋に事柄の性質を表現できない。特に抽象度の高いカテゴリでは
とある生物が「人間」というカテゴリに属するかどうかはあまり疑いようがない。
狸が人間に化けているとか、実は社会には一定数の宇宙人が潜んでいるとか、
そういったファンタジーな話でもない限り、「私は人間だ」という命題に疑いはないだろう。
けれど、それが「男・女」だったら?「若い・老いた」であれば?
生物学的な性だけではなく、ジェンダーの問題もあるし、
男装した女性であったり、あるいはその逆など、見た目では判別がつかない場合もある。
「若い人」のとらえ方なんて人それぞれで、普通は自分より年齢が低ければ誰だって若い人とみなしてしまうだろう。
でも純粋に自分自身が「若い」かどうかなんて決められない。
年上の人と比較すれば当然「若い」だろうし、
自分より年下の人間だって当然たくさんいる。
つまり「若い」というカテゴリに単純に自分自身を当てはめることなんてできない。
そもそも「若い」という言葉は、その人の性質を表現しているわけではないのだ。
誰かとの比較で、若いかそうでないかを表しているだけに過ぎない。
■カテゴリを範囲ではなく、完全な性質として論じやすい
冒頭の「私はHSPだ」という定義も、
「私は若い」と同じく、誰かとの比較でしか表現できていない。
HSPは極度に敏感な人ということだが、
アーロン氏によれば、アメリカ人の5人に1人はHSPであるという。
言い換えれば、敏感の度合いが高い上位20%の人ということになる。
その中には当然、世界でも1位2位を争う敏感な人もいれば、
ギリギリ敏感と言える20%のライン際の人もいるだろう。
つまり、「HSP」というその人の性質を表現しきっているわけではなく、
誰かとの比較での判断でしかない。
でも『多くの人』は、本当は一人ひとりがそのカテゴリにおける度合いも様々なのに関わらず、
カテゴリを純粋な性質として論じる『傾向がある』
HSPの例で言うと
「HSPは心優しい」
「HSPは頭が良い」
「HSPは他人の思いをくみ取るのに長けている」
「HSPだから疲れやすい」
「HSPだから仕事が続かない」
「HSPだから非HSPとは分かり合えない」
などなど。
そして、一度「私はHSPだ」あるいは「あの人はHSPだ」という命題が認識されてしまうと、
「HSP」という言葉があたかも代名詞であるかのように使われてしまう『傾向がある』
■カテゴリで論じることの違和感
再三『傾向がある』と表現したのは、
『多くの人』の中には、もちろんこうしたカテゴリにとらわれない人もいるだろうからだ。
でも、自分や他人が何かのカテゴリに所属しているという考え方は、
紀元前から受け継がれているように、多くの人にとってごく自然なことである。
だから前述のように、「HSP」というカテゴリを、
人の特性を表す代名詞のように使うことに違和感を覚えない人は多いだろう。
でも僕はそこに違和感を覚えてしまうのだ。
そもそもHSPとは、敏感の度合いが高い人で、人口の20%くらいを占めている。
日本中で考えると、2500万人だ。
2500万人もの人が集まって、それらの全ての人が、
心優しく、頭が良く、他人の思いをくみ取るのに長けている。
ということがあるだろうか?
もしかしたら、その他の1億人を集めた場合と比べると、
その『傾向はある』かもしれないが、
あくまで傾向があるというだけで、決してその性質を言い当てているわけでは無い。
HSPの中でも、さらに敏感な人を20%集めた場合と、
そこまで敏感過ぎはしない残りの80%のHSPを集めた場合なら、
パレートの法則的にまたその傾向は強まるかもしれないが、
カテゴリが「範囲」でしかない以上、あくまで傾向を述べることしかできないはずだ。
傾向を述べることしかできないはずの、カテゴリを主語とした命題「HSPは心優しい」に対して、
あたかも、それが真であると信じてやまないHSPの団体の『傾向』が違和感となって、
HSPをテーマとして活動している人たちから、何となく距離を置いてしまった気がする。
■カテゴリではなく、あくまで人は個人
例えばマーケティングにおいて、
ある特徴をもつ人たちをカテゴライズして(マーケティング用語ではセグメンテーションと呼んだりする)、
そのカテゴリの人たちをターゲットとして販売戦略を組み立てるのは常套手段である。
ただ、本当に個人の特性をつかんで、
その人に会った唯一無二のオススメを提供する、「ワントゥワンマーケティング」という概念も存在する。
本当の意味でそれが実現出来ているケースと言うのは世の中に無いと思っているが、
考え方としては良いものだと思っている。
人をカテゴライズすることなく、
ユニークな特徴を持つ個人として接することができれば、
マーケティングの分野に関わらず、色々と上手くいくと感じている。
例えば、戦争はカテゴリ同士の争いである。
国家や宗教というカテゴリに所属している人たちが対立して起こることだ。
「あの国に所属している人間は悪だ」
と決めつけてしまえば戦争せざるを得ないけど、
「あの国の人たちは確かに喧嘩っ早い傾向があるかもしれないけど、いい奴もいるでしょ」
という考えになれば、争いは起こらない。
せいぜい喧嘩で済ませればいい。
そういう争いは、非HSPが起こしてきたものだ。
心優しくて穏やかなHSPであればそんなことは起こらない。
そう思ってしまったら危険信号。
「HSP」と「非HSP」の争いが始まってしまう。
そして、その争いを仕掛けたのは、まぎれもなくそのカテゴリを作り出した「HSP」の側なのだ。
カテゴリを作るということは争いが起きる可能性を高めるということ。
カテゴリに固執することは、争いを助長するということ。
それをよく考えて、僕はカテゴリーをなるべく排除して人と関わっていきたい。
そう思っていたら、引きこもりになってしまったのだけど。。。
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Comment
もしかして、HSPという言葉が死語になるときがくるのでしょうか。今の時点では、「HSP」というカテゴリーが、自分を言い表すのに役立っていると思えるし、自分を守る防波堤?にもなってくれていると思うのですが。
繊細で敏感であることが当たり前のように受け入れられるようになればわざわざ、「HSPです」とかいわなくてもいいわけだし・・・。
HSPの課題はHSPであることを脱ぎ捨てていく(?)ことなのかも・・・。
そのためには行動が必要かもしれない。まあ、行動は人それぞれでHSP男子さんのブログもそのひとつですよね?
「HSP」という垣根をなくしていくようになっていくのが、行動の成功なのでしょうね。
卒HSP(笑)
サトシさん、コメントありがとうございます。
言葉が死語であるかどうかは、自分次第といったところでしょうか。
周りで使われなくなっても、サトシさんにとって「HSP」という言葉・カテゴリがしっくりくるようでしたら、
それは生きたものだと思います。
僕にとってもそういう時期はありました。
けれど、時間が経ち、HSPというキーワードに沿った行動を取ってみるうちに、
次第に違和感と言う形になってきたのです。
僕がHSPというカテゴリに当てはまることは変わらないかもしれません。
でもそればかりに気を取られてしまうことは何か違っていると感じます。
僕という人間を言い表すカテゴリはHSP以外にも様々あって、
それらが合わさって僕が作られているのだから、一つのことにとらわれたり、
あたかも僕自身の代名詞であるかのように「HSP」という言葉を使うのは違う気がしているのです。
サトシさんも
>HSPの課題はHSPであることを脱ぎ捨てていく
と表現されていますが、それもHSPであれば誰にでも当てはまる課題ではないと思っています。
HSPにこだわることで、心のバランスが取れる人もいるでしょうし、
同じ人でも時期によって違うでしょう。実際僕もそういう時期があったので。
なので、もしこの世の中で成功の形があるのだとしたら、
「個人個人で持つべき課題や思想、行動は違っていても、
それぞれが認められ、バランスを上手く取ることができる世界」
なのではないでしょうか。
無理にHSPというこだわりを捨てなくてもいい。
でも捨ててもいい。
どういう選択をしようと、それは個人に委ねられている。
そしてどんな行動を選んでも認め合ったりすることができる。
それが本当の理想の世界かなと思うのです。
まあそんな壮大なことを言ったとしても僕は大した行動をしてないですし、
ブログだってあまり更新は出来てないのですが、
ここで何か自分の考えを書いてみることで、少しは世界に変化があるかもしれないとは思っています。
それで充分です。ではごめん!!