母の話
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思索
もう日付超えてしまいましたが、今日は30歳の誕生日でした。
母からの誕生日おめでとうのメールにはこう書かれていました。
”ここ10年ほどヌーヌーの誕生日を迎える度に、おめでとうというより申し訳なさを強く感じてたかな。
親を選べずに生まれてきたヌーヌーが無邪気に笑ってる赤ちゃんの時代の写真を見て…あらためて複雑な思いでした。”
母はまず間違いなくHSPだと思います。
普通であれば見落としてしまうような細かいところにも良く気付き、
潔癖で完璧主義、あらゆることに神経質になり過ぎて苦労していました。
父と妹は非HSPなので、
その大雑把さや、楽観的な感覚について行けなかったりすることには、
僕と母の感覚が一致していることが多かったように思います。
ただ、よくHSPの方々との話で、
親がHSPであれば良かったということを聞きますが、
HSP同士であっても、親子関係が上手くいくとは限りません。
特に僕と母親との関係は、とても歪なものだったと思います。
小さい頃、僕は母のことを「ママ」と呼んでました。
でも、小学生にもなれば、”男子が母親を「ママ」と呼ぶのは恥ずかしいこと”
と、されるので(偏見かもしれませんが、HSPであれば世間一般の肌感覚というのが良くわかるので、根っからのマザコンにはならない気がします)、
母親を「ママ」と呼んでいる自分にずっと違和感を覚えて過ごしてきました。
もちろん、学校で「ママ」などと口走ることは無かったのですが、
家では例えば「母さん」などと呼ぶことがはばかられる気がして、
ずっと呼び方を変えられずにいました。
ちょっとでも母から「もう大きくなったんだから『ママ』なんて呼ぶのはやめなさい」と言ってくれたり、
あるいは、僕が適切な反抗期で「うるせえ、クソババア」などと言うことがあっても良かったのかもしれません。
ですが、どうしても母の言いつけや方針に意見したり逆らうことができなかったのです。
母は、我が家では絶対。
子ども心に感じた矛盾は、母の論理の前では圧倒的に無力でした。
僕は外で友達と遊ぶよりは、部屋の中で寝っ転がって色々妄想するのが好きな子どもでした。
ですが、母は「私の子供のころは公園で遊んでたのに、ずっとゴロゴロして……」など小言ばかり。
それなのに、たまに外でサッカーなどして泥だらけで帰ってこようものなら、
玄関先で泥のものは全部脱がされ「また仕事増やしてくれて!」と物凄い剣幕で叱られます。
友達が家に来ようものなら、
「挨拶ができてない」だの「靴下に穴があいていてみっともない」だの、
しまいには「友達はちゃんと選びなさい」といったニュアンスのことを言われます。
家事は全て完璧に自分でやらなければ気が済まず、
学校で出される夏休みや冬休みの記録表での家事手伝いの欄を書くのが息苦しかった気がします。
「どうせちゃんとできないんだから」「続かないんだから」というような難癖をつけて、
台所に立ったり、部屋の掃除はさせてもらえませんでした。
僕ができたのは、風呂掃除くらいのものでした。
料理やミシンがけのようなことを「家庭科で習うでしょ」と言われて、
家でさせてもらえなかったことは結構ショックでした。
僕は恥ずかしい話、高校を卒業して実家を出るまで、
自分の家の台所で卵の殻を割ったことも無ければ、カップ麺すら作ったことが無かったんですよ。
でも、そういった数々の矛盾に感じること、
不条理に思うことも、母にだけはどうしても言いくるめられてしまいます。
その場その場では、確実に正しいこと、
論理的にも本質的にも絶対の正義がそこにあるように感じられて、
それにずっと逆らうことができずに育ってきました。
「ママ」と呼んでいた件も、そのうち母のことを呼ぶことすら避けて、
中学・高校はコミュニケーションそのものを避けるようになったと思います。
あえて、呼称を使わなくても良いくらいの最低限のものになり、
お互いの距離はかなり離れてしまっていました。
そのうち、この家にいたら自分がダメになるような気がして、
本当はずっと自宅から通える地元の国立大学を目指してましたが、
高校3年の夏に第一志望を変えて、東京の私大を受けることにしました。
幸い、成績に関して言えば上位である限り文句は無かったので、
現役での合格を条件に東京の私立を受けることは認めてもらい、
何とか合格することができたので、初めて家を出て東京に出てきました。
けれど、不思議なもので、
小さい頃からの母の影響というものは、物理的な距離ではどうにもならなかったのです。
サークルを選ぶにしても、母に文句をつけられないような由緒のあるところを選んだり、
外に出て遊ぶにしても、何か素行の悪いことがあれば母の説教があるような気がして、
のびのびと振る舞えなかったのです。
もちろん、学費や仕送りなどを頼ってしまっていた甘えもあり、
自分が想像していたような母からの独立などではなく、
余計に母の存在を意識して息苦しくなるような日々が続きました。
そして、20歳のある時もう何もかもダメになってしまい、
うつ状態になり、動けなくなり、病院のお世話にならざるを得ませんでした。
その時に、母には全てぶちまけたと思います。
自分がこうなってしまったのは、何もかもお前の所為だと。
完璧主義を人にも押し付けて、自分は全く肯定されてこなかったと。
親を選んで生まれてくることができなかった俺は不幸だと。
ありとあらゆる罵詈雑言を浴びせたと思います。
けれど、母はもう昔のように僕を責めることはありませんでした。
冒頭にあったメールのように、
今度はずっと自分自身を責めるようになりました。
母は何も完璧ではなく、ただのもろい人間でした。
子育てのことなんて何も分からず、
潔癖であることでノイローゼになり、
家事を完璧にこなすことでしか専業主婦としての自分の価値を見いだせず、
長女としてチヤホヤされてきた伯母と比べられながら育ち、
親戚や友人からは都合のいいように扱われ、
家庭のことには無関心な割に、古い亭主関白な考えを持つ父にいら立ち、
それでも、我が子だけが生きがいになるような、
ただのもろい人間であることをきちんと理解してなお、
変わることができなかった、ただのもろい人間でした。
そして僕の人生の絶対的なルールであった母が、
そんなにももろい存在であることを知り、
完全に自分が悪かったと泣き続けることしかなくなった母を目の当たりにして、
僕はもう自分の怒りだとか虚しさのような感情をぶつける先が無くなってしまったのです。
母は、完璧に自分が悪いと認めることで、
僕の感情の矛先をかわしているような気がしました。
代わりに、その矛先が僕自身に向いたり、
でも、完全に態度を変えて、自分が悪いと認めることで、
母が罪を免れようとしているとの思いも沸き、
またそこから、違った形で僕ら家族をより歪なものにしていきました。
一家心中の一歩手前だったと思います。
それを踏みとどまっていたのは、首の皮一枚だったのかもしれません。
もしくは、今となっては、
お互いHSPであったことで、何か通じるもの、
論理とか感情すらも超えた何かがあったのかもしれません。
何か、その後ドラマのように劇的に、
親子関係を修復させるような出来事があったわけではありません。
ただ、首の皮一枚で関係を保ったまま、
運よく色々立ち直り、関係を落ち着かせる時間が持てたというだけの話です。
誰が悪かったわけでもない。
ただ、あまりにもお互い近すぎて、依存しすぎて、
親子とはこうあるべきといった常識に悩まされ、
世の中に対して生きづらいと感じ、
でもやっぱり血のつながった母子であり、
離れることができなかった。
そういうことをこの10年、あるいは30年かけてようやく理解できてきただけです。
今日、母への返信で、
自分がHSPであること、それを知ってとても楽になったことを伝えました。
だから、もうあんまり自分のこと責めるなよとも言いました。
色々熱心な人なので、HSPについてはさっそく色々調べているそうです。
母も、恐らく自分がHSPであることを知ったら、
これからの人生も楽に生きられるんじゃないかなと思うのです。
ずっと親孝行なんてできてこなかったけれど、
やっぱり僕が今こうして少しでも幸せを感じることができたのは、
30年前に母が僕を生んでくれたからだし、
その幸せを感じるための土台を作ってくれたからです。
だから僕は幸せになるし、
母も幸せになればいい。
どうせ死んでも切れない縁なのだから、
他の誰に理解されない関係であっても、僕らはそれでいいのだと思います。
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Comment
こんにちは。
関係がとても濃くて苦しかったのですね。
お母さんもきっと辛かっただろうと思ったら泣けてきました。
時間と距離と、離れてみて分かることもあります。
きっと、気持ちの整理がつき始めてこられたのでしょうね。長いこと眠っていた種が春になり、土の中から芽を出したようなイメージでした。
ヨーコさん
コメントいただきありがとうございます。
母にはかなり辛い思いをさせてしまったと思います。
でも、最近はよく夫婦二人で出掛けたり、好きな野球を見に行ったりと、
ただガチガチに苦しんでいたときよりは、ずっと楽になってくれているようです。
長い年月かかりましたが、やっとちゃんとした親子の距離が分かるようになってきたのだと思います。